有村敏雄 自分史(戦争体験)

お爺ちゃんの生きてきた時代は、震災・恐慌・事変・戦争・本土空襲・原爆投下・敗戦・戦後復興等々大変な時代だった。

平和で豊かな世代に生まれ育った孫の君達には創造も出来ないことだと思う。

 

お爺ちゃんたちの時代にも君達の時代にも良い面・悪い面はあるが、現在の平和で豊かな世代は大変な時代を乗り越えた(三百万人といわれる戦死者を含め)お爺ちゃんの世代の人たちのお陰である。

 

米寿の記念として孫ちゃん達のために何かの参考になればと思い、お爺ちゃんが生きてきた足跡を綴ってみた。

有村敏雄年表

大正14年 関東大震災の2年後有村武雄・ワイの長男として誕生。
昭和7年 平佐小学校入校
昭和12年 シナ事変が始まるころ 鹿児島2中に入校
昭和17年 日米開戦後翌年に海軍兵学校入校
昭和20年 東京大空襲が起きているころ、海軍兵学校卒業。海軍少尉任官
昭和21年  戦後復員輸送に従事
昭和26年 警察予備隊に入隊
昭和30年 海上自衛隊に転官
昭和31年 澄子と結婚
昭和53年 海上自衛隊定年退職。東京海上火災の事故処理担当として採用。
昭和59年 長女和子が結婚
平成元年 東京海上火災を定年退職
平成3年 次女志津子が結婚
平成7年 叙勲受賞(勲4等旭日賞)
平成28年 91歳で逝去

Life Stories 自分史

誕生・幼少時代

お爺ちゃんは大正一四年六月二一日に有村武雄・ワイの長男として生まれた。玉の様な元気な子で両親は勿論、親戚の小父・小母さんも大変喜んでくれたらしい。

 

お爺ちゃんは別紙の年表にあるように戦前・戦中・戦後そして現代を生きてきた。各世代とも良い所・悪い所あつたがそれぞれを肌で感じながら見てきた。特に若い頃は、農業大恐慌時代・時変・戦争があり大変な環境だった。

 

自分では覚えていないが、大変なヤンチャ坊主だったらしい。世代は大正一二年の関東大震災の復興・厳しい寒さと大恐慌に襲われ農村は飢えと貧困に苦しみ、娘を身売りする所もあったそうだ。

 

海軍

昭和一七年後半から太平洋戦争は日本が劣勢となりはじめた。苦しい時代であったが、国民は「お国の為に、勝つまでは・・・」と歯を食いしばりながらと頑張った。国力の限界を遥かに超えた戦争であったが、戦時体制の強化の名のもと女性や子供達まで軍需工場に動員され、男性は大学生も学徒出陣として戦争の第一線に狩りだされていった。また、女性も従軍看護婦となり戦地へ向かった。

 

 戦況は次第に劣勢となり、玉砕・特攻・一億玉砕・烈しい本土空襲攻撃・沖縄決戦へと移っていった。

 

①海軍兵学校生徒時代は昭和一七年一二月~昭和二〇年三月であった。起床から就寝までの日常生活は最上級生が指導するシステムで、厳しいものであった。起床ラッパの第一サウンドで飛び起き、服装を整え、毛布を畳んで寝室を出る。寝室を出る時間が遅くなっても、服装がおかしくても毛布畳み方が下手であっても鉄拳の対象になるので必死だった。

 

 午前は教官による学科の勉強、午後は主として上級生の指導による訓練の時間だった。太平洋戦争が始まってはじめての学生であつた為、短縮教育が予定されており、教育も訓練も厳しいものがあった。我々が最上級生になった時も下級生の躾や訓練は厳しくした。悲鳴をあげる者もいた。

②昭和二〇年三月三一日に生徒を卒業し、少尉候補生となった。広島県大竹町にあった海軍潜水学校の学生となり、潜水艦乗り組み要員の教育を受ける事となった。潜水学校卒業の多くの先輩達が特功隊やその他の戦闘で戦死していた。当然我々もと思っていた。お国の為の戦死は怖さも無かったような気がする。敵艦を一隻でも多く沈める戦果を挙げることのみを考え訓練に励んだ。

 

 昭和二〇年三月頃から米空軍による日本本土攻撃が始まった。東京も大阪も名古屋も福岡も、その他多くの主要都市が焼け野が原になってしまった。一方報道は日本は神国だ、そのうち神風も吹いてくると国民の士気を高めようと努めていたようだ。そして泣きごとを云う者は非国民だと罵られる状況だったようだ。

③昭和二〇年、七月一五日、海軍少尉に任官した。我々が乗船する潜水艦はまだ造船台にも載っていない状況で、任官しても潜水学校で訓練をしていた。

 八月六日広島に原爆が投下された。大竹からも茸雲が見えた。当初は弾薬庫の爆発ではないか等デマが横行したがピカドンと呼ばれ新型爆弾と言われるようになった。

 私達は兵学校でアメリカの原子爆弾の研究が進んでいることは知っていたから、さてはと思ったものだった。

 

2日位経った頃、近くの田んぼの畦の彼方此方で火が燃えているのを見た。聞いたところによれば、大竹の沢山の人達が広島の疎開作業にかりだされていて沢山の人が同時に亡くなり、火葬場が使えない為、この様な状況になったということだ。話を聞いて、親族の気持ちを思うと表現できない位悲しくて悔しかった事を覚えている。

 

④戦争に反対する事を許さない国家体制のもとで、民衆は兵隊にとられ、軍需産業に就かされ、家も生活も空襲で破壊されていった。そのような状況にあっても日本の勝利を信じ一億玉砕を合言葉に日本全国民は戦地に行っている者も銃後を守っている者も憑かれたように戦っていった。

 

 八月一五日、終戦の詔勅(玉音放送・50ページ参照)があり終戦となった。大変悔しかった。同僚のつわもの共が抱き合って泣いた。さすがに、日本は疲れていたせいもあったが、天皇陛下自らの放送に暴動も無く、済済と終戦処理に向かった。

 

復員輸送

終戦と共に、荒れ果てた日本列島にアメリカ軍将兵が次々と進駐してきた。占領政策は日本の民主化と非軍事化、軍部の解体、農地改革、教育の自由化等で明るい未来も見え始めた。

 空襲に脅える生活は無くなったが飢えとの戦いが始まった。食糧の遅配、欠配があり、買出し、闇市、タケノコ生活で何とか命つなぐ毎日であった。民主化を目指して歩く一方、まだ多くの人は一日一日を生きるのに精一杯であった。

①海軍は解体となり、郷里に帰る事になった。郷里は鹿児島県薩摩郡佐村である。鹿児島の家に落ち着いたと思ったら、復員省から呼び出しがあった。さては、戦犯関係と思い、覚悟して出かけた。

 話は外国に残されている軍人や民間人をかつての軍艦で連れ帰る仕事を依頼された。やり甲斐のある仕事と思い引き受けることにした。

 

※写真はイメージです。
※写真はイメージです。

②昭和二一年一月から二三年四月まで台湾、上海、満州から約一五回ぐらい沢山の引揚者や復員軍人を内地に輸送した。大変感謝され、やり甲斐のある仕事だった。

 日本は戦後の混乱の中、食糧難に苦しみながらも平和な時代に向け強く歩み始めていた。

 

③復員軍人の中には「俺の戦友は皆戦死した。俺だけ帰るには忍びない」と船に乗りたがらない人もいた。「日本の国土も大分やられている、銃後を守ってくれていた人達も大変に疲れている。内地に帰って私共と一緒に国の復興に頑張りましょう」と説得しながら乗ってもらった事も度々あった。また、民間人の中には子供を連れてこれなかったと泣いてばかりの婦人もいた。励ますのに大変に手古摺ったこともあった。さらに、中には自分の娘が仕事の関係で日本にいる、出来の良い娘だ、今 二六歳だから嫁に貰ってくれないかとの相談があったりして大笑いした事もあった。ちなみにお爺ちゃんは当時は二一歳だった。

 日本の本土が見えてくると全員が甲板に上がって来て喜んで抱き合い、万歳を唱えていた。輸送任務を引き受けて良かったと思った。

 

 

戦後の復興

敗戦によってゼロからスタートを余儀なくされながら日本人は懸命に働き、高度成長を成し遂げた。オリンピックもアジアで初めて開催されるようになり新幹線、高速道路、地下鉄、上下水道等も近代国家となった。

 

戦中、戦後の無いないづくしを耐えた人々が(もうあんな生活嫌だ)という気持ちが原動力となって今日の日本となった。

 

今や戦中、戦後を思い起こさせるものはすっかり姿を消し新しい文化が次々と生まれてきている。

 

さすが勤勉な日本人。大変に嬉しく喜ばしい事である。

 

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